248番目にして初めての国書に由来する元号「令和」

新元号「令和」

4月1日、新しい元号の発表の日となり、日本中が落ち着かない様子でした。

新春の月にして気淑く風ぎ梅は鏡前の粉を披き蘭は 珮後の香を薫らす

(万葉集

梅花の歌32首の序文に当たる文です。

天平二年正月十三日に帥の老の宅にあつまりて宴会を申く。時に、・・・・から
続いています。季節の良い月に梅の花が開いて薫る様が目に浮かぶようです。

序文はこの後も続いています。庭に蝶が舞っていたり、空には雁が飛ぶ描写が序文に見られ、自然の美しさが見て取れるようです。(万葉集 中西進著から引用)

序文にある梅の花の色はおしろいのように白い梅です。

蘭の香りもいい香りということはこの時代に蘭の花もあったんですね。
いつの時代も香りというものは、人を幸せにするものですね。

安倍首相の談話 では、厳しい寒さの後で見事に咲き誇る梅のように明日への希望とともに 、それぞれが大きな花となっていってほしいという気持ちを込めて、元号の選定にあたったとのことでした。

国書を由来とした元号ははじめて

国書を由来とした元号は、元号ができてから初めてのことだという。
日本には色あせることのない価値があると、首相は続ける。

地位、身分に関係なく集められた日本最古の歌集、万葉集からの出典はうれしいことです。
人々が美しく心を寄せ合う中で文化が育まれてきた日本、四季折々の美しい自然の中、生活の中に根差していくことを願って選定されたという。

令の意味、よい。誉め言葉に使われる

令の付く言葉::令夫人、令息、令嬢、令兄、令月

新元号「令和」
こちらにも万葉集の歌があります

簡単な字で覚えやすいですね。

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a brilliant woman 日本美人 陸奥宗光夫人亮子

女性なら一度は言われてみたい「美しい女性」という言葉。
縁がある人もそうでない人も一般的に美しい女性とはどんな人でしょうか。
テレビで放映されていたものをまとめてみましたが、ここでは昔の女性を参考に紹介されています。時代背景が現代とは大きく異なっています。

最も美しい日本女性

a brilliant woman 陸奥宗光(江戸~明治を生きた政治家 治外法権撤廃、
日英通商航海条約締結)の夫人、亮子は宗光がアメリカ赴任時、現地の外交界で美しい日本女性だという評判だった。

亮子は藩士の妾の娘に生まれ15歳で芸子、小兼になって新橋で紀州生まれの宗光に見初められる。

勉強家で努力家

そして明治21年宗光のワシントン赴任に同行。
非常に努力家で宗光から「本や新聞を読みなさい」と言われ日本外交史、八犬伝、十八史略、源氏物語、徒然草、古今集などを読んで勉強したと言う。

英語も勉強し琴の名手でもあり才気溢れる女性だった。
女性の鑑ですね。

外交官夫人ですから日本の文化を紹介するのはもちろんですが公使館のデコレーションにも日本文化を紹介ために蒔絵の衝立などを飾っていたという。

2017/ 2/16 20:55

日本文化を紹介

愛される日本から尊敬される日本のためには何をしたらよいか、それは日本の小説を翻訳することだった。
前述のように亮子は日本の本を読破していたから出来たこと。
毎日2時間は英訳する時間に当てたという。

イギリスのアーネスト・サトウは亮子のことを”涼しい眼をもち、すばらしい眉をもった美人”と評している。(以上出典 BS NHK)

写真からも分かるように日本美人ですね。

近頃「女性の時代」と耳にしますが昔からいろいろな意味で強かったのは日本女性かもしれません。

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日本のシンドラー、杉原千畝の功績

日本のシンドラーと呼ばれた外交官、杉原千畝の功績を私たち日本人はもっと
知らなければと思います。
シンドラーとは、第二次世界大戦中に千人強のユダヤ人を救ったドイツ系の
オスカー・シンドラーという人の名前。

杉原千畝は岐阜の山奥(八百津町、自然に恵まれた山間地域)から出て早稲田で学び、外交官になった人でロシア語、ドイツ語フランス語に長けていたと言われています。

東宝映画「杉原千畝 スギハラチウネ」(2015)の中で杉原自身「人の世話にならないよう、お世話をするように、そして報いを求めぬように」という言葉通りの人だったようです。

第二次世界大戦中に、自分の信念を貫きユダヤ人に命のビザを発給した外交官、杉原千畝は1985年1月18日イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞」を受賞している。

日本国が発給してくれれば、迫害されている自分たちはソ連を通って逃げられるという切実な願いがあり、それをかなえてあげたことでその子孫たちに感謝され続けています。

すごい日本人ですね。

映画の中では
「ユダヤ難民を見捨てるわけにいかない、ポーランド攻勢でヒトラーは勢いづいているが同盟を結んでいるドイツだってソ連に侵攻すれば日本のために動いてくれることはない」そんなことも危惧していたのです。

リトアニア、カウナスの日本領事館で2139枚(一家に一枚、約6000人)のビザを発給していたという事実、そしてそのビザ発給で救われた人の子孫が世界中で4万人以上生存しているという。

2000年10月10日に外務省が公式に杉原千畝の功績を顕彰している、そういう功績を見て真の外交官魂とはこういうものだと感動しました。

昭和16年、ソ連を通って船で福井県鶴賀沖に着いた難民たちは今までの緊張から安堵に変わり、子供たちは船から降りると跳ね回っていたという当時を知る老人の話をTV番組で紹介していました。当時は日本も戦火の中でした・・・・・

こんなに立派な日本人がいたのに学校では教えてもらわなかったのは不思議です。

世界を変えた女性、マリリン・モンローたち

歴史の裏側には常に女性たちが大きな影響力を与えていました。
第二次大戦中の世界で女性が果たした役割は大きかったようです。

女優、マリリンモンロー

はノーマ・ジーンという名前で軍需工場で働いていた時に
写真に撮られたのがきっかけでモデルになる。

モンローウオークでも男性をとりこにしたマリリンの生涯は波乱に
満ちた。

1954年新婚旅行でジョー・ディマジオと日本を訪問。
当時は日本でも大きなニュースになったそうです。

1961年、アメリカ35代大統領ジョン・F・ケネディが就任。
当時31歳のファーストレディ,ジャクリーヌ・ケネディは夫のために尽くす良き妻。

当時、活躍していたジョンF・ケディと妻ジャクリーヌでしたがその間には
マリリンモンローがいたと言われています。

そしてアメリカに激震が走ります。それは、男性の理想像だったモンローは38歳でこの世を去り、その翌年1963年ジョン・F・ケネディはテキサス、ダラスで暗殺される。
アメリカが世界のトップの座を占めていた頃です。

大戦後のアメリカでは戦争帰還兵のための新興住宅ブームが起こっていました。
強いアメリカとなり、女性は仕事をやめ家庭に戻るようになった。

女性の居場所は家庭で育児に専念することだという風潮が高まり
その証拠に1953年美人コンテストが行われるようになった。

パリでは、1900年代、輝きを放つ女性たちがたくさんいました。

そして太陽の沈まない国、イギリスではヴィクトリア女王78歳の
当時のヨーロッパは豪華に着飾った貴婦人たちで溢れていました。

しかし帽子の留ピンやレースの花のペチコートを外すのに時間が
かかるほど女性の服はコルセットで縛られていました。
そんな中、ココ・シャネルは締め付けられた女性たちを解放したのです。

体を締め付けないファッションを確立したのです。

しかし戦争中、ココシャネルはドイツ軍諜報活動家の愛人となっていました。
当時、シャネルの香水が爆発的に売れていたのですがその経営権をユダヤ人
に渡してしまっていた。
マリリン・モンローはシャネル5番を使っていたと言います。

スパイと騒がれたシャネルは売国奴と罵られ、戦後の数年間スイスに亡命。

晩年、「自分の服を着た女性は美しかった」とシャネルは話しています。
生涯独身、87歳で逝く。

————

1920年代、映画も始まり名女優が銀幕を飾るようになり化粧師マックスファクターが女優のために活躍し、美顔術、パーマが発明された。

世界のリーダーに躍り出たアメリカ、次々に発明される電化製品、通信販売がこの頃始まったそうです。

**出典:世界を変えた女性たち(映像の世紀BSプレミアム)**



WOWOW「杉原千畝スギハラチウネ」12月10日、11日

日本のシンドラーと呼ばれた外交官の激動の半生を描いた歴史ドラマが放映されます。

WOWOW「杉原千畝スギハラチウネ」12月10日、11日。

第二次世界大戦中、多くのユダヤ難民にビザを発給し命を救った日本人外交官
杉原千畝を、俳優の唐沢寿明さんが演じます。

ポーランドでのオールロケ撮影により杉原千畝を壮大に映し出すというドラマです。
お楽しみに。
杉原千畝に関する記事はこちらに詳しく掲載してあります

杉原千畝は岐阜県八百津町という田舎で生まれ、父親の息子に対する希望は
「医者になれ」ということだったが、自信は一生懸命外国語の勉強をして
早稲田に入学した。
医師になることより外交官になりたかった千畝はその希望をかなえてしまったのだ・・・・

奥様、幸子さんの功績も大きかったことと思います。
幸子さんに関する記事を見つけました

杉原伸生氏が父親、千畝氏について語っています。インタビュー記事を見つけました

人間としての外交官はこういう人のことをいうのですね。

外交官として英雄の杉原千畝という人

女性が活躍する世の中になってきました。
家庭を守る女性は昔から強くてたくましいものなんですが・・・

社会に出ることによってますます強くなってくるのでしょうか(笑)
そんな女性にも海外勤務、出張などなど会社命令があると思います。

(強い)大和なでしこが民間外交官として大きな役割を果たす場も
あるかと思います。

ということで杉浦千畝氏(1900-1986)の人道支援の話は心に留めて
おいたほうがいいと思います。

杉原千畝氏は命のビザを独断で発給し約6000人もの迫害されたユダヤ人を
助けた人でした。
自分の身分を投げ打っても人道支援をした英雄です。

そんな日本人がいたことを誇りに思いたいですね。

杉原畝氏は6人兄弟の2男として岐阜県八百津町に生まれた。

12歳の時に英語に出会い、英語で身を立てたいと決心する。
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大正6年、17歳の時に家族に医者になれといわれたが
自分にはなりたい職業があったので医者にはならず、勘当されて東京に出る。

独力で英語を学び早稲田に入る。18歳。
ありとあらゆる生活をしながら1919年5月外務省留学試験
を受験する。しかしこの年には英語がなくスペイン語を希望して
受験する。合格してロシア語の担当になり、その後ハルピンへ
留学することになる。

そんな苦労をしながら勝ち得た外交官の仕事だった。

リトアニア領事館で従事していた時にヨーロッパではドイツのユダヤ人
迫害が行われていた。

ナチスの目から逃れるために日本領事館へユダヤ人たちが逃れてきた。

そんな人たちを無視する訳に行かず国の命令を無視して
ユダヤ人にビザを発給、彼らを救った。

当然日本国へ戻った時には外交官の職は解かれた。

20年後、助けら
れ生き残ったユダヤ人の一人が感謝の意を
伝えるために杉原千畝氏に面会に来た。

イスラエルから勲章を受け1074年にはイスラエルの恩人として
表彰されたのです。

杉原千畝氏のような外交官、今もいてほしいものです。

母の力 日本のリーダー土光敏夫を育てた女性

日本を代表する東芝に立て直したことで知られている土光敏夫さん
公私を峻別しつねに身ぎれいな生き方を」モットーにしていました。

国の為、行政改革を成功させたのはメザシの土光さんだったからでしょう。

無駄なお金は使わない質素倹約を絵に書いた人だったという。

社では幹部に厳しかったが従業員の首は斬らない社長でした。
母の力」(文藝春秋 出町 譲著)に書かれています。

そんな偉大な土光さんを育てた母親はどんな人だったでしょう。

片手授乳し片手で本を読んでいたという。
名は土光登美、明治4年岡山県生まれ。

土光氏が「母は非常に強い意志を持っていた。子供に対しては実に寛大で・・・母は全てを許してくれた」と述べています。

登美さんは60歳くらいの時にピアノを習い、琵琶や謡曲を習ったという。

70歳になってから神奈川県鶴見に橘女学校を創設しています。

「どのお子さんにも入学しtもらいましょう、」と差別のない教育を目指していました。

土光さんのことを「コツコツと頑張り、会社では出世している」と語っています。

こつこつ頑張る力は母に教えられたのでしょう。

「東芝」という会社を見れば土光さんの偉大さが分かります。

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大企業にもいろいろな事情があるようです。
土光さんが今、生きておられたら・・・・・

東芝が今、2017年現在、苦境に立たされていますが、先月NHKでフラッシュメモリー生みの親が東芝の社員だったというドキュメンタリーを放映していました。

いまでは当たり前になっているパソコン、携帯電話など多方面で使われているメモリーチップですが30年かかったと開発者の言葉です。

世の中に出るまでの苦労話、上司とのコミニュケーション不足などが語られていました。

当時の東芝の利益はメモリーカードのお蔭だったとも。

もう一度そんな東芝として蘇ってもらいたいものです。

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ブッダの教え 悟り 「おもてなし」を受ける 釈迦の教え

NHKアーカイブス1995年の番組で印象に残った場面があったので書き留めました。

釈迦が故郷へ向かう旅の途中での話であり、死を直前にして人々に残していった言葉を探ります。

インド哲学者の中村 元氏、きき手は草柳 隆三氏。

インドでは植物をまるで自分の仲間で生あるものとして樹木を愛する。

そして大きな樹木があるとそこに塚を作り神が宿るとして大切にする。

晩年、80歳のブッダ(釈尊)は
「世界は美しいもので人間の生命は甘美なものだ」といって思い出の地をゆっくり眺めながら別れを惜しんだ。

釈尊はインドのカースト制度の中で、上下の隔てなしに人に接した。

旅の途中で(下層階級の人間)チュンダが釈尊に「おもてなし」をしようと食事を差し上げた。

釈尊はその申し出を快く受けたというのです。

しかし、その食物にあたってしまったようです。(今で言う赤痢のようなもの)

チュンダは自責の念にかられた。
釈尊はもてなしてくれたチュンダを責めることなく

思いやりの言葉で「意義深いものであった」と言われたという。

旅をするに連れ随分衰弱してきた釈尊は愛弟子、アーナンダに「喉が渇いた、水を飲みたい」と言う。

人間ブッダが苦しまれている。

生まれ故郷に辿りつけず旅の途中でアーナンダに「サーラ樹(沙羅双樹)の間に頭を北に向けて床を用意してくれ」と言う。

愛弟子の方が悲嘆にくれていると「生あるものは破壊されるものである。」と釈尊が叱咤激励する。

「私が伝えた言葉が死後にお前たちの師となる」と諭した。

民族、宗教を超えて釈尊の言葉に耳を傾けると同感することがあると哲学者 中村 元氏は述べています。

健康名水【浸みわたる水素水】